理事長コラム/Column
第2回/求む、新しい文明論
2011年3月11に起きた大震災と原発事故で、我々は「所有に基づく近代文明のあり方」を問われました。 国土のいたるところに都市を作り、家を建て、その隅々に電力というエネルギーが行き渡るような文明です。 過去の経験からどこに活断層があるかを調べ、地震予知や通 報のシステムを構築し、巨大な防潮堤もつくりました。 それもまた我々が作り上げた文明の一面 です。しかしそうして築き上げた文明が、一回の巨大地震によって、 まるでそれまでの営み自体をも否定されるかのように、根底から破壊されました。 その現実を我々はどのように考えるべきなのでしょうか。「自然の前に、我々は無力だというよりも、 自然のことを我々は何も知らなかった」に等しいのではないかと思います。
近代経済学とは?
今までの人間社会は経済学者、又は金融業界と工業・技術・科学に携わる産業界の人々、 大きくこの二つのタイプに依って牛耳られてきたと言っても過言ではありません。 より多く、もっと、もっと所有したいという人間の欲望に基づいているのでしょうが、実はこれが間違いだったのです。 本来人間が営んでいること全般に言えるのは、心身に満足感をもたらし、幸福で平和に暮らしたいと言うことが基盤となっています。 ところがいつのまにか「どちらの効率が良いか。どちらが安いか」という、簡単にいえば「人間万事おカネ」というところに収斂 されているのです。 ところが、そういった文明は本来の姿ではなく、一部の偏った考え方であり、 昔の日本人に限らず西洋人もそういう万事おカネという生き方ではないところに重点を置いていました。 人々が山菜やキノコを山に採りに行く時の例を挙げると、ワラビでもマツタケでも、都会の人や郊外の人はあればあるだけそれを全部採ってしまいます。 もちろん皆がそうとは限りませんが、地元のお爺さんやお婆さんは、必ず翌年のために何本か残します。 農民は稲や麦を刈ったあと落ち穂拾いをしません。秋になってたわわに実をつける柿の実も守り柿として木にいくつか残します。 すべて雀やキジ、山鳩たちの糧として、命をつなぐために残しているのです。 しかし経済効率から言うと、落ち穂がでるようなムギの品種は悪いということで、コンバインで刈った後に落ち穂が絶対出ないように、 効率を上げるための品種改良や機械の改善を行い、落ち穂を残さない、自然の動物が生きられないような利己的スタイルが近代文明の真骨頂であり、 古来の世界にはなかった文明なのです。 現代社会はここから始まっています。巨大産業が興ったおかげで、生活水準が上がり、栄養、医療、衛生が飛躍的に向上して平均寿命が延びました。 それに伴い人口は70億人にまで増え、70億人の欲望を満たすために時間軸を前に戻すことが出来ず、 核分裂の連鎖反応による膨大な熱エネルギー(化学反応に比べて100万倍)を生産する原子力発電にまで手を広げることになったのです。 しかしその制御を誤って重大な事故(福島原発事故)が起きました。また、事故調査結果 が発表になる前に、早くも再稼働を行うという愚かな、 愚かな判断をしてしまったのです。何故そうなってしまうのでしょうか?
悪夢のエネルギー
1905年、アインシュタインの「特殊相対性理論,E=MC
2
」が発表され、質量 (重さ)とエネルギーは互いに転化しうることを示しました。 ウラン235の重い原子核に中性子がぶつかると、2個の原子核に分裂します。その時に2個ほどの中性子が発生し、 それがまたウラン235に衝突して核分裂が次々に続いていきます。連鎖反応によって終わりの質量 は初めの質量(ウラン235と中性子1個)より 0.1%だけ軽くなっていますが、その質量 の差がエネルギーに転化します。1グラムの質量は約20兆カロリーに相当し、膨大な熱エネルギーを作ります。 まさに夢のエネルギーでした。しかしながら今は悪夢のエネルギーとなってしまったのです。
省エネ経済学
生きとし生きる者にとって、誰しもが「最小の物資、エネルギーの消費」で最高の幸福(物心共)をつかむことを目標としています。 もっとエネルギーを多く使い、もっとモノを沢山所有すれば幸福になるに違いないという人は少なくありません。 しかし日本人にはどれくらいのエネルギーがあれば幸福で、或いは企業活動にとって満足しうるかのデータが欠落しています。 例えばスーパーマーケットでは床面積1m
2
あたりのエネルギー消費量 はいくらが適正であるのかというデータがありません。 あるのは前年同月のエネルギー消費量 だけなのです。これでは省エネ経済学は成り立ちません。これは国の怠慢以外の何物でもないのです。 スーパーマーケットであれ老人ホームであれ、店舗などすべての建築物には適正な消費エネルギーはいくらであるかのデータが必要です。 これと比べ合わせて初めて何%削減したかという結果が得られます。このデータを基準とし、これに合致するためにヒト、モノ、 カネがどれだけ必要かということが省エネ経済学の基礎となり得るのではないでしょうか。前年同月比何%削減したかなどには普遍性がないため、 省エネ経済学とは言えないのです。 この適正なエネルギー使用量 を算定するには非定常である気象条件を1時間ごと入力しなければ熱量 負荷計算が出来ません。 この計算のためには大型コンピューターの導入が必要となるでしょう。よってこういった仕事は民間では不可能であり、 通産省や地方自治体などの役所の仕事となります。経済産業省が行っている次世代省エネ基準などは、 省エネ建築資材や省エネ機器の認定や基準つくりです。そんなことは全く意味がありません。恥ずかしいくらい普遍性がないため、 経済政策となったとしても省エネ対策とはならないでしょう。全くの税金無駄 使いであると思います。
新たな文明論を
我々はここ100年の間に、自然に関する膨大な量の知識を得て、巨大な富を手に入れてしまったために、 自然の解読が終わったかのような錯覚を得てしまいました。が、しかし実はほんの一部しか手に入れていなかったことを、 今回の大震災で思い知らされました。それよりも我々は自然や生命などを手に入れる(所有する)といった近代文明の傲慢な価値観に問題があったと思います。 自然にしろ、生命にしろ、我々は「所有」から「預かる」といった謙虚な価値観に切り替える新しい文明が必要なのです。(決して共産主義ではありません)
今、原発を再稼働するか、脱原発にするかで国論を二分しているようです。決して脱原発を行い再生可能エネルギーにシフトすれば、 すべてが解決するほど単純な問題ではありません。問題は自然にしろ、生命にしろ、我々が所有しようとする価値観から、 お預かりしているという謙虚な価値感の転換なしには、原発であろうが、再生可能エネルギーであろうが同じ価値観に立つ限り変わりはないことになるのです。 ちなみに民法の第1条は所有権から始まっていますが、新たな文明論も難しい道なのです。