これは人工的に作られた都市文明と生き物(人間も含む)が本来持つべき実感とか感覚が基本的に対立することなく、人間の頭脳で人工的に作られた文明に一元化しようとする傾向に対する養老毅先生から私ども日本人すべてに向けた警告であると理解しております。
かつて漱石が述べたとおり、人は自らのエネルギーの消耗を防ぐために文明を進歩させてきました。人力車をつくり、自動車をつくり、汽車をつくり、新幹線をつくり、飛行機を飛ばしてきたのです。そしてそのために水力・火力では飽き足らずに、必死になって原子力という「魔のエネルギー」まで開発してしまいました。人力を使う事を避けて「楽」になるために努力をしてきた挙げく、ますます「フクシマ原発事故」の処理で苦労しているわけです。
フクシマの現状を見て、原発などとんでもないという心情はわからないわけではありません。しかし脱原発を原発推進派に説明しても中々説得力はありません。時の安倍自公政権は「グローバルな競争に打ち勝って成長をするには原発の再稼働はさけられない」とのたまう訳だし、国民の多くも支持していると見受けられるからです。
一方、脱原発派が言うには原発は恐ろしいからもう辞めにして、自然エネルギーで経済は成長できると小泉元首相はおっしゃいますが、本当に経済成長が可能であるというほど今の日本の社会システムは単純ではありません。現状では原発推進派と脱原発派の論争には巨大なカベ(バカの壁)があってかみ合う事が不可能ではないかと思っております。もっといえば脱原発派は「科学と技術の革新によって富を生みだし無限に成長する」という近代文明の価値を根底から見直すという作業が求められます。
仮に原発推進派の主張が正しいとします。原発を廃止することで、深刻な電力不足に陥り、電力料金が高騰し、日本経済はグローバルな競争力を失うとすれば、脱原発派はそれを受け入れなければなりません。それを自然エネルギーで成長が可能であるとか、電気料金の値上げには反対だの、雇用不安が生まれるとかを主張してはいけません。
グローバル経済のレベルを落とし、あるいは中央集権的な電力需給システムを分散型スマートグリッドシステムに改革(国内9電力会社の解体を意味する)するとか、生活や消費のレベルを落とすことも覚悟しなければなりません。つまり私どもは明治維新に匹敵する大きな価値選択と進路変更を求められます。
おそらく戦後の日本ほど、電灯はいつも光ってなければならず、電車は時刻どうりに動き、水道はどんなに寒くともちゃんと水を出さねばならない、それが便利というものでした。雷が落ちて停電すれば、責任は雷なのに、電力会社が責められ、電車が3分も遅れれば、うるさいぐらいの謝罪アナウンスが車内放送で流れます。線路に人が入ったからと言ってどうして車掌が謝らなければならないのかよくわかりませんが、困ったことに、そうしないとクレームを付ける「わがままな人」が必ずいるからです。
成長と言う事は単なるGDPが大きくなるという事だけではなく「より高く」「より明るく」「より早く」「より便利に」を目指すもので、こうして視覚的にも感覚的にも「成長」が実感できるもでもありました。この便利さと快適さを発展させながら脱原発を実現するにはどうしたら良いかというのが私どもの今年の宿題なのです。これでもってエネルギーに関する「バカの壁」を解体したいものです。